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J-BREATH 連載講座

講師:木田 厚瑞先生 

 呼吸ケアクリニック東京 臨床呼吸器疾患研究所 医療法人至心医療会 理事長


J-BREATH第72号 2014年6月号掲載

第4回 入院したがる患者さん

 

かけだし医師のころ


 いま働いている日本医科大学に移る前、私は25年近く、東京都老人医療センター(現・東京都健康長寿医療センター)の呼吸器内科で働いていました。そのうち20年近くは同科の責任者として陣頭指揮をとっていました。同院は渋沢栄一の創設になる福祉施設からスタートし、養育院と呼ばれた歴史のある施設であり、美濃部都政の第2期目に将来の高齢社会を見込んで800床をもつ病院として開院されました。当初は都立の医科大学を目指す構想もあったそうで研究所が併設されていました。病院で働く医師は希望により研究所の職員も兼ねることができ、診療が終わった夕方から真夜中まで一緒に研究生活を続ける友人医師たちもたくさんおり充実した毎日でした。
 開院時の病院長は村上元孝先生。先生は、私が学んでいた金沢大学の内科の教授で同大学の附属病院長でもありました(下記)。学園紛争で嫌気がさし大学を離れられた先生を訪ね、初めての就職先となりました。学生時代から村上先生の指導の厳しさは有名でした。特に回診がある前の夜は若手もベテラン医師も徹夜でカルテをまとめ先生から何を聞かれても答えることができるように準備していなければなりません。患者さんは平均年齢が80歳を越えた人が大半で、寝たきりの人や認知症の人も少なくありません。先生は患者さんを画一的に診るような態度を嫌い、一人ずつていねいに診て行くことをいつも指導されました。
 先生が言われるていねいとは検査を多く行うという意味ではありません。見る、診る、聞く、聴くが大切でこれをもとに考えよ、正確に判断せよ、ということなのです。しかも判断となる知識や情報は最新のものに裏打ちされていなければなりません。先生は医学中央雑誌という日本で発表される医学論文を分類して発表する雑誌の編集長をしていたので極めて博学でした。私もときにその編集作業を手伝っていました。日本から発表されるほとんど全ての論文を400字くらいに要約したものを作成していくのです。私の専門が呼吸器だと分かっているのに先生が読めと言われたのは糖尿病や心臓病など、呼吸器と無関係な論文ばかりでした。自分の専門外のことについても広く興味を持てという先生のお考えだったのでしょう。おかげで今でも専門外のことも広く読むという習慣がつきました。
 

回診で教えられること


 回診のときはベッドサイドに立って受け持ち医が5分間くらいで一人ひとりの患者さんの病状とこれからの治療の方針を説明するのですが、どの患者さんについても厳しく問われるのが常でした。患者さんが寝ているベッドのわきで難しい言葉を並べて議論し合う光景はいまでは患者さんに失礼だということであらかじめ別室で討論し合い、患者さんの前で主治医が詰問される風景はいまでは見ることがなくなりましたが、村上先生時代は、うまく答えられないと後で院長室に来るようにいわれ、行くと机の上にたくさんの文献が置いてあり、勉強不足を指摘されるのです。厳しさと優しさが混在しており回診が楽しみでした。
 私は、小さな手帳をいつも白衣のポケットに入れておき村上先生がアドバイスされることがら全てをメモにとることを始めました。やがて自分が回診するころには常に全ての患者さんの注意点や疑問点をメモしておく習慣にしました。20年余りの記録はいまでも引き出しの中がいっぱいになる量です。その中には昔、疑問だったことが科学の進歩で解決したこともありますが、まだ先の見えないこともたくさんあります。つくづく患者さんの診療を納得した形で進めることの難しさを感じています。
 

大家の診断


 私が赴任したのは昭和50年4月でしたが、5月になって受け持った患者さんのことは特に忘れ難い思い出です。全身に黄疸があり、痩せさらばえた76歳の男性でした。ノーベル賞の作家、川端康成さんと親交があるという作家でしたがどんな本を出されていたのかどうかはつい聞きそびれました。病名は進行した胃がんであり肝臓に転移がありもう末期に近いのでご家族のご希望を聞き入れて治療するように、と上司の先生から指示されました。
 病気は重く見た目にも末期と思われる状態でした。毎日、夕方になると38度以上の熱がでて汗びっしょりになります。体力がなくトイレに行くのがやっとという状態でした。食欲も低下してほとんど食べられない。胃がんはまだ胃カメラが実施できないころでしたからバリウムを飲んでレントゲンで映し出す胃透視という方法で診断されており、その当時第一人者であった某病院の消化器科の部長による診断で、そのレントゲンフィルムも持参されていました。大家はこういうレントゲン写真を撮るのか、と感心した覚えがあります。末期の胃がんということでしたが胃のレントゲン写真を見ると大きく膨らんだ影がありますが境界に当たる表面がつるつるしているように見えます。進行した胃がんにしては少しおかしい。しかし、大家の診断が間違うわけがない、数日は疑問も持たず末期の胃がんの患者さんとして診ていました。
 上京する前に私は金沢大学の血液内科、呼吸器内科で研修を受けていました。受け持っていた患者さんは白血病の人が多かったのですが慢性骨髄性白血病の患者さんを数人担当していました。慢性骨髄性白血病では、通常は4、5千である白血球が癌化して10万を超すようになります。脾臓が大きく腫れることが多いので脾臓の大きさを毎日、触診で測るようにと言われていました。脾臓は左の横隔膜のすぐ下に位置し肋骨に隠れており、健康な人はでおなかをさわっても触れることはありません。少し腫れているかどうか、脾臓が大きいかどうかは、左の前胸部の下の方を静かに叩く打診の大切さを教えられていました。どのくらい静かに叩くかですが、木のテーブルの表面を順番に静かに叩きテーブルの足が付いている場所が叩いた感触で当てられるまで練習するようにと言われていました。医師かけだしのころは打診を練習するのに壁や机、目につくものをなんでも叩いて練習した覚えがあります。いまでは、腹部のCT撮影で脾臓の大きさはすぐ分かるのでそんな打診を勧める医師もいなくなりましたが。私が黄疸の患者さんに打診を行ってみると明らかに脾臓が腫れていると思えるのです。また採血の検査では黄疸は胃がんが肝臓に転移して起こす閉塞性の黄疸ではなくて血液の中の赤血球が溶ける溶血性黄疸であることが判明しました。
 これはいったい、どういうことなのか、話が合わない。しかし上司の医師や同僚に相談しても末期のがんで見られることだろうという意見でした。患者さんの状態をみればそれも納得できる状態でした。中には末期とわかっているこの患者さんにさらにいろいろ検査をするのか、というような非難めいた意見もありました。一緒に働いていたベテラン看護師の中にはいまさらどうしてこんな検査をやるのか、家族も望んでいないのにとあからさまに言われることもありました。医療は同僚の医師や多くの看護師と一緒に進めるのが一般的でありチーム医療と呼ばれています。密室での偏見を避けるためには大切なことですが多数意見がいつも正しいといえないのが難しいところです。
 

粟粒結核という怖い病気


 患者さんの胸部のレントゲン写真をよく光の強い状態でみると通常は見られない粟粒のような影が多数見られます。近頃のレントゲン写真はデジタルで撮られているので鮮明ですが昔は強い光で初めてわかるようなボーッとした影としか見られないものが多かったのです。本当に胃がんの末期だろうか、いったん疑いだすと全てが疑問だらけに思えてきます。回診のときに疑問に思っていることを村上先生に報告すると、自分が考える通りに検査を進めなさいといってくれました。
 私の考えていた病気は重症の結核。それも結核菌が血液の流れに乗って全身に広がった粟粒(ぞくりゅう)結核でした。結核は結核菌により起こる感染症です。若いときに結核に罹患し、しばらく療養所で治療を受けていましたという高齢の方はいまでもたくさん診ます。胸部のレントゲン写真では古い結核の痕は白く見えます。核を結ぶとは実に当を得た病名だと思いますが、硬くなりしっくい壁のようになって治っているのですが実はその中で結核菌はまだ生きていることがしばしばあります。年をとって栄養状態が悪くなるとそのしっくい壁が崩れて痰と一緒に出てくるようになることがあります。結核の再発です。このときに血管が近くにあり結核の病巣と交通していると結核菌が大量に血液に乗って体中の臓器に回るようになる。1個の結核菌が一つの病巣を作るといわれ、ばらまかれたものが3ヵ月くらいたつと粟粒くらいの大きさになる。そうするとレントゲン写真でも見られるようになるというわけです。その患者さんは「20歳ごろ治療を受けました」というのですが、有効な薬もない昔のことですから安静にして栄養を保ちそれ以上に広がりもせず治ったということでしょう。結核の診断が確定するのは確かに結核菌で起こっているという病巣を証明することです。しかし胸部のレントゲン写真で怪しい影があっても気管支鏡もない時代ですからどうにもならない。粟粒結核の診断は、眼底を詳しく調べると診断がつくということを論文で読みました。その患者さんにも眼底に小さな粒があることが分かりましたが白内障があり明瞭には見られない。
 詳しくは避けますが悩みながら考え、いろいろな検査を追加して分かったことはこの患者さんは実は胃がんではなくて粟粒結核であり、その病気により免疫学的な異常が併発して溶血性貧血という赤血球が溶け出すような状態を起こしているということでした。これが黄疸の原因だったのです。すぐに結核の治療を行い、この患者さんは太り、3ヵ月後に歩いて自宅に退院することができました。経過を報告した院長の回診で、私はとても褒められて嬉しかったことを思いだします。私が来るまでにもたくさんの粟粒結核の人がいたけれど治ったのはこの人が最初だともいわれました。実際、病院の記録を調べるとその当時、過去に26人が粟粒結核で亡くなっておりそれも死亡後の病理解剖検査で判明したものでした。この経験はかけ出しの私にとっては強烈な印象となりました。その後、最近に至るまでたくさんの粟粒結核の患者さんを診る機会がありましたが早期に診断することができましたがこの時の経験がいまでも役立っています。
 このできごとから私は今でも学生に講義をするときに自分の目で見て確かめることの大切さ、考えながら行うことの大切さ、偉い人がこういったからという伝言ゲームのような診断をしてはいけないと教えています。一人ずつ顔がちがうように患者さんごとに診断は同じでも同じ病気であるはずがない、ていねいに診なさい、という村上先生の言葉を30年以上がたった今もかみしめています。
 

入院ということ


 東京都老人医療センター呼吸器内科は最盛期にはベッド数は60床を超えており、毎年1,000人近くの患者さんの入院を受け入れていました。高齢者ばかりですから重症の患者さんが多く毎日が多忙です。在宅酸素療法を受けている患者さんの総数は300人近く。おそらく当時は全国でもっとも多い患者さんを抱える施設の一つだったのではないでしょうか。遠くから通院してくる患者さんもたくさんいましたが平均年齢が80歳過ぎであり、周辺4区(板橋、豊島、練馬、北)から通院する人が4割以上を占めていました。周辺の開業医との連絡は緊密で、少し悪くなった患者さんや開業医が手を焼くような事態になったら電話1本でもすぐ入院していただくようベッドを確保することにしていました。そのかわり、良くなったらなるべく早く退院をお願いし、必要なら往診していただくようにし、なるべく多くの患者さんが利用できるように運営するというのが呼吸器内科の医師7人の共通の了解事項でした。
 ところが昔はちょっと具合が悪いから入院でもして点滴でもしてくれませんか、という患者さんが多く、断るのに苦労したおぼえがあります。また、いったん入院すると病気は良くなったのに退院するのは嫌だという患者さんにも困りました。なだめすかし、退院していただくのですがそうこうしているうちに入院期間は2ヵ月くらいに延び、今度は入院が必要な患者さんがいてもベッドがないという苦労がありました。
 入院は病気が重くなったときだけではありません。高齢者の夫婦だけで暮らしている場合、ご主人が寝たきりに近い場合、奥さんはほとんど家を離れることができず結局、二人とも倒れてしまい入院というケースにも遭遇しました。その経験から奥さんが疲れ切ってきたら1、2週間、ご主人に入院していただきその間に、外来通院ではできない検査を行う。奥さんにはリフレッシュしてもらって退院後はまた頑張っていただくというような工夫もしていました。レスパイト入院と呼ばれていますが、介護保険が始まるようになってからはこのような入院は減りました。ヘルパーさんや訪問看護師が家庭に訪ねてくれるだけではおそらく介護する奥さんの心労はつきないのでは、と心配します。
 

下肢の筋力低下は入院を繰り返す原因


 いまでも日本の病院では入院している期間が欧米、とくに米国の病院と比較すると格段に長すぎると不評です。医療費が高くつく原因になるし、入院しているうちに足腰が弱くなってだんだん動けなくなってくる、このような患者さんをたくさん目にしてきました。最近、これをはっきり裏付ける論文がスペインから発表されました。総数342人のCOPD(慢性閉そく性肺疾患。慢性気管支炎と肺気腫を合わせた病名)の患者さんを約2年間にわたって調べたものです。
 


 COPDの患者さんが入院するときはほとんどの場合が急性増悪、つまりいつもより症状が格段に悪化した場合です。図1はその結果を示したものですが、1年間に1回以上入院したCOPDの患者さんは入院が全くない人と比べると、6分間歩行距離検査で比較すると25m以上歩けなくなっています。高齢者の場合には、心臓病、腎臓病など他の病気で入院する場合も少なくありません。これを比較したのが図2です。COPDの人が入院した場合が歩く距離が特に少なくなっていることがわかりました。COPDの患者さんが歩けなくなると入院したり、死亡したりするリスクが高いことはよく知られています。この論文ではCOPDの患者さんが入院するようなことがあれば足の筋力が低下しないよう、できるだけ早くリハビリテーションを始めるべきであり、退院後もしばらくはリハビリテーションを継続した方が良いとアドバイスしています。しかしこの病院でも必要な患者さんの5%だけに実施しているのが精いっぱいであると、リハビリテーションを実施してくれるような施設が少ないことを問題にしています。
 

村上元孝先生(1914―1989)
 

 広島県佐伯郡大野町に生まれる。1937年東京帝国大学医学部卒業。坂口内科(現東大第三内科)に入局。1946年東京大学講師となる。その後、群馬大学教授を皮切りに、金沢大学、東京都養育院(現東京都健康長寿医療センター)において要職を歴任。一方、1959年に日本老年学会が設立されて以来理事や会長をつとめ、1978年には東京において国際老年会議を主催するなど日本および世界の老年医学の発展に力を尽くした。1964年金沢大学時代に医学中央雑誌刊行会理事に就任。尼子富士郎亡き後、理事長を継承(特定非営利活動法人医学中央雑誌刊行会ホームページより)。